賃貸事務所が一目瞭然
今日は晴天で、東の空が舷しい。
「お仕事が終わったところなのですか?」「そう…。
もう、眠くて眠くて」「申し訳ございません」「今から、電車に乗って帰るんだから、嫌になるよ。
絶対、寝ちゃうよな」。
「この近くに部屋を借りられたら、楽になりますね」「そういうことね」「歩いていけるところがよろしいですか?」「そうだなあ。
でも、原付とか買えば便利かも」「あ、そうですね」そんな話をしながら、車に乗り込んだ。
私はシートベルトを締めてからエンジンをかけ、車を駐車場から出した。
「おたく、いくつ?」助手席のTさんがきいた。
「私ですか、いえ、まだ、今年入社したばかりでして」「え、大学を出て、すぐに?」「じゃあ、俺より歳下ってこと?」「それは、そうだと思います」「あ、そう…」彼は私の方を見ているようだ。
「見えないなあ。
同じくらいか、それとも少し上かなって思ってた」。
「そうですか…」「まあ、なんていうか、老けているとは言わないけど、そのぉ、なんだ、落ち着いている?うーん、物腰がすわっているっていうか」物腰がすわる?「あ、そう。
何?二十三とか?」「二十四です」「会社勤めとか、俺には絶対にできないと思うわぁ。
なんていうか、ほら、人に頭を下げなきゃならんでしょ。
あれね、頭下げるたびに、なんか自分の一部が削られていくみたいな、いやあな感じになるんじゃない?違う?俺、そんな気がするよ」「ええ、まあ、そこまで酷くはないと思いますが」「ああ、そうか。
そういうのに敏感な人間は、そもそもそんな仕事には就かないってことか」。
「うーん、まあ」「はい、そうですね」「あららら、そう!若いねえ。
いやあ、見えないよ。
ていうか、俺が、いかんのか。
いい歳して、こんなふうだから」「Tさんは、お若く見えると思います」。
これは、私としては最大限の社交辞令である。
はっきりいって嘘だが、商売上、これくらいは言わないといけないのだ。
「まあ、やっぱ、好きなことしかしてないし。
まともに仕事とかしたことないんだよね」Tさんは笑った。
「いや、それで生活が成り立つなんて、それは才能があるからですよ」。
話しながら、自分でも感心するほど胡麻をすっている。
「まあ、好きこそものの上手なれってね」「鈍感でなくちゃ勤まらんっちゅうわけだ」「あ、そうかもしれません」「いろいろ、しがらみとかあってさ、大変なんじゃない?ほら、接待とかで、ね、飲みにいったりしても、酔っ払っても、やっぱり仕事なんだ。
ずうっと気を遣わなきゃならんわけだし。
どう、接待なんてのは、ないの?」「あ、そうですね。
私の場合は、まだそんな楽しい目に遭ったことがありません」「何言ってるの。
違うよ、君の方が客を接待することはないのかっていう意味だよ」「あ、そうか、そうですね。
いえいえ、そんなのもありません。
どうしてでしょうか」「どうしてないの?」「そんな大きな仕事を、私はまだ任されておりません」「お、そうね。
じゃあ、何、誰がやってるの?」「うちの場合は、社長なら、あるいは」「やっているかもしれない?」「はい、もしかしたら」「あ、そう…、俺は?接待してくれたら良かったのに」Tさんは笑った。
ワンルームの賃貸契約くらいで接待はしないだろう、と思ったけれど、もちろん黙っている。
最初から本命を見せてはいけない、という鉄則に従って、まずは近くの物件を見せた。
少々建物が古いし、鉄骨造二階建ての二階の部屋なので、下に音が響く、といった欠点がある。
六畳間と三畳程度のキッチンが独立しているものの、暗いイメージは否めない。
「畳かよ」というのが、Tさんの第一声だった。
もちろん、これは私も予測していた。
今どき畳に布団を敷いて生活している日本人は、若者には少ないのではないか。
畳では跡が付くため、ベッドも置きにくい。
そういう私は、もの凄く広い洋風の部屋に布団を敷いているが…。
そうか、ベッドくらい買った方が良いかもしれないな、とこのとき発想した。
その次は、鉄筋コンクリートの三階建ての物件だった。
こちらは、建物は比較的新しい。
しかし、ベランダがない。
どうしてかというと、南には工場の大きなスレートの壁が立ちはだかるように迫っているのだ。
日当たりは、はっきりいってないに等しい。
しかし、夜しか活動しないのだったら、人工照明とエアコンで環境は保持できるとは思われる。
「うーん、暗いな。
いくらなんでも」Tさんは漏らした。
「昼間は、お休みになっていることが多いのではありませんか?」私は思い切ってきいてみた。
「もうちょっといいとこない?」Tさんはつぶやくように言った。
「はい、次のは、ちょっとおすすめです。
実は、まだ建物ができていません」「え、それは困るな」「いえいえ、来週にも完成するのです」「お、それはいいね。
期待しちゃうな」。
養生シートがまだ方々に残っているものの、ほとんど工事は終わっている。
管理人も待っていて、すぐに部屋の一つへ案内することができた。
「あ、これは良いな。
やっぱ、新しいと、それだけで嬉しい感じだよね」Tさんは言った。
「そうですね。
もうほかは、ほとんど決まっているようです」。
あと、二部屋だけ残っていると「ベランダもあるし」Tさんは、部屋の中へ入っていく。
まだ、床も養生のシートが敷かれていた。
私は、バスルームのドアを開けて、彼に見せた。
「寝ているけどさ、でも、寝ているときに、日光浴できたら最高だよね」。
そういう生活は、たしかになかなかのものだと私も思った。
石油王くらいならば、可能かも「こういうところが新しいと、気持ちが良いですよね」うん、なかなか上手いこと言うね、君」いえ、とんでもない。
でも、こんな締麗なところに私も住みたいなって、ちょっと思ったものだ。
「そうだね。
うーん」二十分ほどその場にいた。
キッチンの引出しや、収納の奥まで丁寧に見たあと、通路へ出て、管理人に鍵を締めてもらった。
私とTさんは螺旋階段を下りて駐車場の車まで戻った。
彼が熱心に見ていた様子から、私はここで話が決まるのではないか、と期待していたのだが、どうもTさんの表情が冴えない。
なにか気に入らないことがあるようだ。
「いかがですか?これよりも好条件のところは滅多にないと思いますが」「うん、それはわかるんだけどねえ」Tさんは屈伸をしながら、ポケットから煙草を取り出した。
「あ、車に乗るまえに、ちょっと一服させてもらっていいかな?」「ええ、どうぞどうぞ」ライターで火をつけ、彼は深呼吸をするように煙を吐いた。
「うーん、そうだなぁ。
どうも言葉にしにくい感じではある。
これは、曲を作ったらわかってもらえるかもね」Tさんは言った。
こんな状況を歌で語られても困る、と私は思った。
それだけは、勘弁してもらいたい。
「つまりね、整い過ぎているっていうか。
あんなところに住んだらさ、自分が、なんていうか、当たり前の人間になってしまうみたいな。
うん、そう、それはやっぱ、音楽を志す者にとって、致命的なものっていうか、失ってはならないものだって気がする」「はあ…」私は眉を顰める。
難しいことを言うな、というのが正直な感想だった。
たしかに、それは歌にしてもらわないと伝わらないかもしれない、とさえ思えるほどだ。
「いや、だからといって、どうしろ、というつもりなんてないよ。
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